住職挨拶

多武峰妙楽寺本坊再建 感謝の言葉 丸子孝法

 

「お前はだまって生まれた」、母の金婚式の一言でした。未熟児で生まれた私は体重も他の人の半分しかない、ひ弱な体でした。中学2年の秋、突然に全身リウマチになりました。お医者さんも、針灸も、新選組副長・土方歳三の生家でつくられた石田散薬という酒で飲む漢方薬も、全く効果がありませんでした。
 万事休すの中、18違う兄の紹介で出羽三山の修行者・奥山宗峰先生にめぐり合えたのです。前代未聞の荒行を積まれた方で、医者に見放された人々が集っていました。
 手を組み、足を組み、背筋を真直に伸ばして坐りなさい。生まれて初めて坐禅を教わりました。百日の加持(指圧)が終った頃、背中に直径30センチ程ある超特大のできもの癰(よう)ができました。癰は命とりのできものといわれます。兄の吸い出しの薬のおかげで、小指ほどある大きな疹が5本でて、奇跡的に不治の病リウマチが治ったのです。
 昭和40年の3月、この山形の奥山先生のところに奈良から先代師匠と奥様が弟子をさがしにこられたのです。私が滋賀の東洋レーヨンに入社する直前でした。その時、先代師匠の奥様が、神棚にお供えした5本の胡瓜の夢をみたそうです。その1週間後、私が初なりの胡瓜5本を奥山先生の神棚にお供してしまったのです。このことが、私が半年後、奈良のお寺の弟子となる決定打になってしまいました。実にリウマチ大菩薩様のお導きで仏弟子になれたのです。
 三輪山平等寺は聖徳太子開基開山と伝え、日本最古の神社・大神神社の神宮寺として4万5千坪の境内に七堂伽藍、十二の塔頭寺院を持つ大寺院でありました。しかし、明治4年の廃仏毀釈により廃寺となりました。地元の有力者「銭宗」の小西様が、明治維新政府から買いもどした平等寺下馬所を「永世仏地」として再建のため提供されたことにより、地元の18名の有志が協力して廃材利用の仮本堂が造られ、檀家1軒もない寺として寺命をつないだのです。
 昭和13年、師匠黒宮秋正方丈様が福井県は小浜の発心寺の修行をへて、この寺に入りました。やがて高宮の岡本はる様が師匠に帰依し、はじめての檀家ができたのです。
 私が弟子入りをして6年後、昭和46年10月26日、末期の癌により師匠は遷化されました。その年の夏の終り、師匠に喜んでもらおうと茶色の木綿の布で七条のお袈裟をぬい、最後の一針は師匠にかえしていただきました。できあがったお袈裟を見て、師匠は大変によろこび、弟子の私をほめてくれました。その時です。師匠が三つの約束をしてくれといいだしたのです。一つは二足の草鞋をはくな、二つ目は墓は小さくていいからこの寺の中に建ててほしい、三つ目は、托鉢をしてでも本堂を再建してくれということでした。
 師匠遷化の1ヶ月後、昭和46年11月26日よりはじめた平等寺本堂復興勧進托鉢が16年続きました。
 師匠の「平等再興」の願いを受け、当時の奈良県奥田県知事に嘆願し、三輪山平等寺の寺号が正式に戻ったのが昭和52年6月4日、丁度廃仏毀釈から百年ぶりの慶事でありました。
 托鉢といっても毎日が托鉢三昧、朝から日没まで歩くのです。しかも警察も銀行も一軒もとばさずに歩くのです。水をかけられることもありました。雨の日も風の日も、犬猫を追い払わんばかりの冷たい思いもしました。托鉢で本堂を建てることなど無理なことだと挫折を感じたこともありました。しかし16年、世の中の多くの人々に励ましをいただき10万人のあたたかなお心を頂戴し、昭和62年7月1日落慶法要を迎えることができたのです。
 大本山永平寺77世丹羽廉芳大禅師猊下を御導師に拝請し、県内外のご寺院様はじめ600名のご参列をいただき、平等寺の本堂・鐘楼堂・鎮守堂・寺務所の落慶法要が営まれ、その様子をNHKが全国放映されました。
 この時の一連の工事を担当されたのが、信仰心の篤い榛原の松塚建設株式会社・松塚善一様でした。松塚様は、「方丈様の集めた托鉢の浄財は1円たりとも無駄にはできない」という、あたたかなお心で建築に当たられました。 思い返しますと、昭和51年の台風で境内南側の石垣がくずれ、阿部の岡本製材・太田製材様から無料で頂戴した材木を、鉋かけのみいれをして夜なべ手作りで赤門を完成したことが基礎となり、飛鳥時代の本堂の設計をしてみようと思いました。しかし、学べば学ぶほどに難しさがわかるものです。
 丁度、何かのご縁で奈良県文化財保存課の松田敏行先生のご指導をあおぐことができました。おかげさまで本堂・鐘楼堂・鎮守堂・寺務所と設計図をまとめることができたのです。
 平成16年、桜井の瀧川寺社建築様により旧平等寺古図に基づいて800年ぶりに二重の塔・釈迦堂が再建され、平成20年には昭和9年の室戸台風で倒壊し75年間柿畑になっていた大和郡山城主・本多公菩提寺久松寺を、大和郡山市藤本建設株式会社様により再建し、この度、令和三年秋、廃仏毀釈より丁度150年ぶりに多武峰妙楽寺一院が桜井市石黒建築様・石黒英人棟梁様により立派に建立していただくことができました。
 平等寺本堂の大きな二つの厨子・地下の工事一式が松塚善一様のご寄進でありました。この度の妙楽寺本堂の須弥壇は、ありがたくも石黒棟梁様に製作ご奉仕をいただきました。
 また平等寺から妙楽寺本坊までの一連の建築用材は、一貫して天理の佐藤木材株式会社会長 佐藤和彦様・社長 佐藤典嗣様にお世話になり樹齢数百年の尊い材木を提供奉仕いただき感慨無量でありました。
 かの京都宇治の萬福寺の鉄眼禅師は、日本におけるお釈迦様の一切経の開版を志し、16年間の勧進托鉢を通して大偉業をなしとげられました。この時に一貫して禅師をささえられたのが、托鉢をはじめた最初の日、五条の橋の上でバッタリ出会った若いお武家様・溝口源左衛門信勝でありました。信勝は後に吉野山の代官に出世して吉野山全山の桜の樹を伐採して鉄眼版大蔵経6万枚の版木ができ、日本における最初の大蔵経ができたのです。
 佐藤木材の佐藤和彦様は、私にとりましては溝口源左衛門信勝のようなお方で、一連の再建に真心こめてご奉仕ご助力下さいました。
 この度の妙楽寺一院の再建は、50年来の念願でありました。同じ桜井市内で廃仏毀釈により廃寺となったのは、平等寺と妙楽寺です。平成28年、大本山永平寺副監院をつとめておりました折に、妙楽寺は永平寺のご開山・道元禅師様の御祖父・藤原基房公が三重の塔を寄進された寺で、永平寺二代孤雲懐奘禅師、三代義介禅師、四代義演禅師様方がご修行なされた寺であり、再建の思いを福山諦法禅師様にお話申しあげて、奈良に帰りました。
 すぐに多武峰妙楽寺本坊の跡地をお持ちの方にお譲りいただきたいと思いました。幸いに三輪の三杉不動産の田中司郎様にお願いし、多武峰の橘茂雄様に妙楽寺本坊・青蓮院宮跡地500坪をお譲りいただくことができたのでありました。この田中司郎様は再建に向けて一貫してご尽力いただきました。また境内隣地の辻本良夫様、上杉忍様にも大変ご協力をいただき再建をみることができたのであります。
 誠心誠意の皆様の真心が結集しました。地元の株式会社中和コンストラクション様はじめ、株式会社都市企画設計様、有限会社ウスイ様、中村石材工業株式会社様、株式会社ナカガワ様、有限会社関西ルーフコンサルタント様、株式会社石創コーポレーション様、中西指定仏像修理所様、ムラセ銅器様、岩澤の梵鐘株式会社様、芹井設備工業株式会社様、光栄電気株式会社様、下髙谷司法書士土地家屋調査士事務所様、荒井印判店様、ダイワ公告様、フジモト化成様、お仏壇の浜屋様、宇陀市森林組合様、アールジェイ株式会社様、それぞれの皆様に大変お世話になりました。更に記念誌作成の写真は、これまで日本のみならずパリをはじめヨーロッパで活躍された写真家・師岡清高様はじめ、田中司郎様、株式会社中和コンストラクション様にお世話になりました。
 特に今回のすべての塗装は、東レ時代の友人、滋賀の河内大典様、寺族の丸子妙幸様、弟子の孝仁様、寛仁様、孫の竜輝様、檀家の辻健夫様の奉仕によりました。及ばずながら私も天井絵や妙楽寺の全景図、歴代祖師図、釈迦八相図、光背や山号額の金箔押し等、できうることはすべて取り組んでみました。
 飛鳥時代653年、藤原鎌足公の長子・定慧和尚が遣唐使とともに唐に渡り、玄奘法師の弟子・神泰法師のもとで仏法を学び、日本に帰国され多武峰妙楽寺を創建されることになります。藤原鎌足公が長子・定慧和尚に出家の道を歩ませた、その広大なる帰依三宝の御心は、用明天皇様の「仏法を信じ神道を尊とぶ」、 聖徳太子様の「篤く三宝を敬う」という日本の国の根幹に基づくものであります。
 開創1342年後の今日、多武峰妙楽寺の一院が再建され、「法燈再び照らして悉く和平ならん」を祈念し、今日まで再建の道をあたたかくささえてくださいましたかぎりない多くの皆々様に心より感謝申しあげ、むすびと致します。合掌

2021年11月3日

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