釈迦像

お釈迦様がお悟りになられて後6年、釈迦国を訪れになられました。父である浄飯王は、仏陀となったお釈迦様の姿を見、画家に命じて絵を画かせました。(ロンドン博物館秘蔵)本尊の釈迦像は、丸子孝法住職が28歳の時はじめて模写した釈迦像の銅像を祀っています。須弥壇には釈尊の生涯(釈迦八相図)が刻まれています。
 
釈迦八相図
【降兜卒(ごうとそつ)】兜率天(とそつてん=仏陀を目指して修行する菩薩たちが住むところ)より、6本の牙をもつ白象となり、閻浮提(えんぶだい=私たちの住む世界)に来られるという伝説です。
【託胎(たくたい)】白象となり閻浮提に降ってこられたお釈迦さまは、母親であるマーヤー夫人の右脇より入り胎内に宿り、マーヤー夫人は懐妊したといわれています。
【降誕(こうたん)】マーヤー夫人は、お産のためにご自分の実家のあるコーリヤ国に帰る途中、ルンビニーの花園で休憩をとられ、真紅に咲き誇るアソーカの樹の一枝を手折らんとして右手を挙げたその時、マーヤー夫人の右脇から男子が出生しました。このとき、竜が産湯のかわりに甘露の香水を天より降らしたといいます。この伝承から、ルンビニー園の花園に因んで、花で飾った花御堂に誕生仏を安置して甘茶を注ぐことが行われます。生まれてすぐさま四方に向かって7歩あゆみ、右手で天を指し、左手で大地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と発しました。7歩の7は六道をこえて仏に至る歩みの象徴といわれています。「天上天下唯我独尊」とは、人間ひとりひとりがかけがえのない存在であることをあらわしているとも解釈されています。釈尊の母マーヤー夫人は、出産の7日後に亡くなり、釈尊は母マーヤー夫人の妹であるマハー・プラジャーパティーに養育され、豊かな生活環境のなかで王子として生活されたのです。その後、16歳で隣国の王女ヤショーダラー姫を妻に迎え結婚生活に入り、一子ラーフラを授かりました。
【出家(しゅっけ)】お釈迦さまの出家は、「四門出遊」(しもんしゅつゆう)という物語にて語られます。 東門を出たときに老人に出会い、人はいずれ老いることを悟りました。南門を出たときに病人に出会い、病の苦しみを味わうことを悟りました。西門を出たときには死者の葬列に遭遇し、いつかは消滅するはかなさを悟りました。北門を出たときに出家者 (沙門) の堂々たる姿に出会いました。北門で出会った出家者の姿こそ、自分の進むべき道と見出されたのです。沙門の姿に感動したお釈迦さまは、出家を決意されました。29歳のお釈迦さまは、人生の根本的な苦である「老・病・死」に直面し、如何にして解決されるのかを考えられ、恵まれた妻のヤショーダラーと息子のラーフラを置いて、出家の道に入られました。
【降魔(ごうま)】お釈迦さまは、苦行生活を6年間続け、骨と皮だけのような体になりましたが、どれほど苦しんでも悟りの境地に達することはできませんでした。そして、苦行が無益であることを悟って中止しました。苦行を捨てたお釈迦さまはナイランジャナー河で沐浴をしましたが倒れました。そこで村の娘スジャータが乳粥を2ヶ月間、お釈迦さまに供養しました。乳粥を食べて体力を回復できたお釈迦様は、静かに菩提樹の下に坐って修行されていました。すると、お釈迦さまの成道(じょうどう)が近いことを知った魔王が、これを阻止するために妨害を加えたのです。魔王ははじめに3人の魔女を使わして、その誘惑によってお釈迦さまの心を乱そうとしました。ですが、心が動じないことを見ると、次には悪魔の軍勢により、武力で瞑想を妨げようとしました。しかし、悪魔の放った矢はお釈迦さまに近づくと花びらとなって落ち、お釈迦さまに危害を加えることはできませんでした。 相次いで起こった悪魔の誘惑を滅ぼし、最後の瞑想に入られたのです。
【成道(じょうどう)】お釈迦さまは、人間の避けがたい「苦」の原因をつきとめて、これを解決するための道を理解されました。6年の歳月をかけてお釈迦さまが到達した答えは、縁起の法でした。縁起とは「縁って起こる」ということ。つまり、ある現象はそれ自体で存在しているのではなく、他の現象によって生じている。逆にいえば、他の現象がなければ、その現象もなくなる。ひとつとして独立する現象はなく、すべては相互に依存しあって存在しているのです。お釈迦さまは老死を人間の根本的な「苦」としました。万物が依存しあっているとすれば、老死はなぜ起こるのか?お釈迦さまは人が生まれるから老死は起こると因縁をたどり、十二因縁という考え方にたどり着きました。このとき、お釈迦さまは35歳でした。これ以降、悟りを開かれたことで多くの教えを説かれました。
【転法輪(てんぼうりん)】悟りを開かれたお釈迦さまは、菩提樹の下で悟りを感じられながら禅定に入っていました。そしてお釈迦さまは、最初に教えを説くべき相手として、6ヶ年の苦行を共にした5人の修行者にすることを考えられたのです。5人の修行者は、ムリガダーヴァ(鹿野苑・ろくやおん)で苦行を続けていました。彼らは、苦行を捨てたお釈迦さまを軽蔑し、拒否するつもりでしたが、お釈迦さまが近付くにつれ、その態度におされて誰ともなく迎え入れ、心からお話に耳をからむけました。自ら「正しく覚った者」であることを宣言し、5人に向かって法を説いたのです。これがお釈迦さま最初の説法であり、「初天法輪(しょてんぼうりん)」といいます。
【涅槃(ねはん)】晩年のお釈迦さまは、あるとき激しい腹痛におそわれました。ご自身の死をさとられたのです。遺言として、その場に集まった弟子や信者らに対して、「自らを頼りにして、真実を頼りにして生きていきなさい」と言い、「自燈明(じとうみょう)」・「法燈明(ほうとうみょう)」との教えを残されました。その後もなんとか旅を続けましたが、鍛冶工チュンダからキノコ料理の供養を受け、その料理に当たってしまいます。後悔して悲しむチュンダに、お釈迦さまは「布施の功徳にかわりはないから気にしないように」と言葉をかけます。しかし、死期は確実に近付いていました。苦しみながらクシナガラに到着したお釈迦さまは死期を悟ってサーラ(沙羅双樹)の下で頭を北に右脇を下にして横たわります。集まった弟子たちに「すべてのものは移ろいゆく、怠らず努めるように」といい残して、80歳の生涯を閉じられたのであります。お釈迦さまが亡くなられた後、舎利弗(しゃりほつ)や目連(もくれん)などの十大弟子や多くの弟子・帰依者によって全世界へと広まっていきました。